妹尾誠二氏との対談
月刊「神戸っ子」
“林のヒューマン対談”第2回より



神戸は音楽に親しみやすいまちですよね。妹尾くんは、69年、生まれは芦屋ですよね。ピアノは小学校の頃からはじめたそうですが、きっかけは何だったのですか?

妹尾 もともと両親が音楽が好きで常に家では何かしら音が鳴ってましたね、それでたまたま家にあったオルガンで聞こえて来る音に合わせて自分なりに手探りで遊んだりしてました。

僕も小さい頃は、オルガン教室に行っていたね。ピアノを続けてきたのは、いい先生との出逢いがあったのかな。

妹尾 習っていた先生は「これやりなさい、次はこれ。」みたいな押しつけがなく、自分の良いところを引き延ばしてくれた気がします。ピアノだけじゃなく その頃から曲書いたりしてましたから、それも持って行って聴いてもらったりしてましたね。

中学から甲南ですよね。ピアノを本格的にやり始めたのはその頃から?

妹尾 そうですね。やってるうちにどんどん面白くなってきて、弾きたかった曲を制覇できた瞬間が「やった〜!」って感じで。それを繰り返していくうちに、のめり込んでいったような感じですね。

普通は課題曲を与えられて、「練習しなさい」と言われると嫌になってきますよね。

妹尾 僕も嫌でしたね。そういう意味じゃ独学に近いですよ。課題を弾くよりは、耳で聴いた音楽をコピーしていた方が多かったですね。歌謡曲からクラッ シックまで節操なく弾いていましたね(笑)。

僕も中3の時にギターを買ってもらったんですよ。ちょうどフォーク世代で、吉田拓郎や井上陽水なんかが格好良かった。友達にギターを弾ける奴がいて、僕もやりたいと思ってね。みんなの前でコンサートやれたら格好いいなと思ってた。ほとんど独学でやったんだけど、僕はあまり研究熱心じゃあないんで、あんまり上手くなりませんでしたね(笑)。とりあえずコードを鳴らして唄っていられれば良かった。どちらかと言えば唄う方が好きでしたね。中学高校と毎日一時間は弾いていましたね。大阪フィルハーモニーと共演をしたのはいつ頃のことですか。

妹尾 14歳の時ですね。ちょうどシンフォニーホールができたばかりの頃で、「あんなところで弾けたらいいなあ」と思っていたら、本当に1週間位してその話が来て、あれはびっくりしましたね。当時の先生が話を持ってきてくれたんです。あれは本当に楽しかったし、いい勉強になりましたね。学校の先生や友達が差し入れ持ってきてくれて、今でも最高の思い出です。

音楽をプロになってやっていこうと決めたのは、いつ頃からですか。

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妹尾 高校卒業するぎりぎりぐらいですね、土壇場にならないと決断できないタイプなんで(笑)。
一度、帰宅部が嫌になってピアノと一定距離を置きたくなった時期があったんです。まあいわゆる愛情の裏返しってやつですかね(笑)。もっと友達と一緒にいたい、そして同じものを分かち合いたいと思いはじめると止まらなくて、勢いで陸上ホッケー部に入部してました。ちゃんと最後まで続けましたよ。インターハイにも行けたし、補欠でしたけど(笑)。
同じゴールを目指して、 ピアノだけでは得ることの出来ないものを手に入れて、 とにかく“妹尾 武”のベースを創りたかった。それはいい経験になりましたね。ピアノは物理的には個人競技ですから。部活などで、青春を謳歌しなければ、音楽的にもつまらなくなってしまうという不安が、自分のなかで漠然とあったのでしょうね。それに僕は作曲家としてもやっていきたかったのでなおさらだと思うんです。
まあそれでもひとりで風景を見ながら、空想に耽るような時間は、相変わらず好きでしたけどね(笑)。

僕も一人っ子でしたが、どちらかというと寂しがり屋でしたね。ひとりでいるのはあまり好きじゃなかった。高校時代には、進路について色々と考えたと思うけど、桐朋音大に決めた決め手はなんでしたか。

妹尾

「単純に東京に行きたかった」っていうのは半分冗談で、甲南てそのまま上(大学)に上がれるじゃないですか。このまま行っちゃダメだというのと、僕のなかでは最終目標はやはり「音楽」だったので、一流と言われるところで己の力を試したかった。ただ音大まで行っちゃうともう後戻りできないので危険な賭けだったと思うのですが、当時は変な自信がありましたね、受かるかどうかも解らないのに卒業したら東京行くんだ〜みたいな(笑)。ピアノの師匠は呆れてましたよ。普通は音大に行く子などは夏期講習や東京の先生に師事にいったりと、何かとお金がかかるんですよ。僕はそのころ六甲アイランドで大学生に混じってホッケーの試合してましたから(笑)。
当時の無謀さはどこから来ていたのでしょうね。

とてつもない自信が湧いてくるときというのはあるよね。そういうときは思うようになるね。

妹尾 そうですね、そういうときは自分以外の不思議な力を感じますね。

よくご両親は応援してくれましたね。

妹尾 受験に行くまでは、「勝手にしろ」ぐらいのものだったと思うのです。ホッケーやって疲れてピアノちょろちょろっと弾いて寝てましたからね(笑)ただ部活引退してから最後の追い込みは凄かったですよ、たぶん。

音大に行くことを決めたときには、具体的な将来像や、夢などはあったのですか。

妹尾 漠然としていますが、どこか街はずれの喫茶店で自分が創った曲が流れたりしたら最高だなあと思っていましたね。

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ピアノって、ものすごく幅の広い楽器だと思うのですよ。

妹尾 持ち運びは不便ですけどね(笑)。

大学時代はどんな感じでしたか。

妹尾 貧乏生活でしたね(笑)。本当にやばい時期もありましたよ。僕は最初からクラシックの道に進む意志はなくて、でも基礎だけは勉強しておこうと思っていたんです。バイトも劇の横やディナーショーでピアノを弾いたりスパゲッティー屋で働いたりいろいろやりましたね。学校にそういうバイト紹介の掲示板があったんです。とにかく女だらけの環境でしたね(笑)。男子校からいきなり変な女子校に放り込まれたようなものですからある意味結構辛かったですね。神戸辺りの女子高のクオリティーの素晴らしさを改めて体感しました(笑)。殆ど他の大学生と遊んでましたね。

ピアノ科に男子生徒はどれぐらいいるものなの?

妹尾 1学年に4、5人ですよ。環境的には、大学というよりは専門学校でしたね。部活も音楽しかありませんでしたから。管楽器などはオーケストラですから先輩後輩和気あいあいみたいな感じでしたけど、やはりピアノは孤立してましたね、自意識過剰軍団みたいな(笑)なんとか卒業して数年後に、ソニーのオーディションに受かったんです。それがコンピレーション・アルバムとしてCDになったのですが。発売日が忘れもしない地震の年の1月21日だったんです。24歳の時ですね。いったん引き上げて神戸に帰ろうかと思ったのですが、今やらなきゃチャンスが逃げると思ってしばらくして東京に戻りました。

そのオーディションに選ばれた人ばかりでアルバムをつくり、はじめて自分の曲が収録されたわけですよね。それがきっかけでプロになったと聞いたけど、それまでもプロへの道は歩んでいたんでしょう。

妹尾 でも危険な橋でしたよ。そのオーディションがなければいまの僕があったかどうかわからないですから。

そこできっかけをつかめたことは大きな自信になったんでしょうね。

妹尾 それはそうなんですが、発売日前に地震がありましたから、それどころではなくなってしまい、すぐに芦屋に戻ってきたんです。僕の宣伝部長のようなことをしてくれていた、親友の同級生が地震で逝ってしまったんです。直前の正月もその友人宅に遊びに行ってて、築100年以上の古い屋敷に住んでいたのですが、冗談で「大地震なんて来たら、一発でつぶれるなあ」などと言っていた矢先だったんですよ。その年は、ほぼ毎日朝まで呑んだくれてましたね、帰り道「出てこんかあ!」とか叫びながら。

デビューは果たしたものの、嬉しいような悲しいような複雑な年だったみたいですね。

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妹尾 そうですね、かなり跡ひきましたね。それでもそのCDをきっかけにいくつかオファーをいただいて何とか立ち直った頃に、収録された「SO HEAVENLY」という曲がフジテレビの深夜番組のテーマ曲に採用されたのです。

フリーから事務所に所属するに至ったのは、どういうことがあったのかな。

妹尾  ひとりではなかなか仕事もとれないし、著作権のこととか解らないことだらけだったので、僕がある程度音楽に専念できる環境を作っていただいて、事務的なことを会社に管理してもらうようにしたのです。ぼちぼち名指しで仕事を頂けるようになってきた頃でした。

ゴスペラーズのメンバーたちと出逢ったのは、いつ頃なのかな。

妹尾 27か28歳の頃ですね。メロディーを楽譜に直して、コーラスのアレンジを考えてくれる人を探してほしいという依頼があったのです。面白そうだから是非やらせてくださいと言ったのがきっかけで、そこで初めて出逢って一緒に作業していくことになったのです。ベースボーカルの北山くんが、クラシックやピアノが好きで、一緒に遊びに行くようになったりして。気がつけば音楽的にも人間的にも意気投合してました。きっと縁があったんでしょうね。

ラグビーはいつ頃から観るようになったの?

妹尾 大学にいた頃からですね。たぶん関西より関東の方がラグビー人気があったと思うんですよ。
スポーツは全般的に観るのは好きですよ。でも大学生の頃は神戸製鋼が強かったこともあって、冬になると必ず秩父宮に足を運んでましたね。何しろ防具もなしで立ち向かって行きますからね。よっぽど好きじゃないと続かないと思いますよ。特に社会人の人はそれで食べて行けるわけじゃないし。飾らない雰囲気が格好いいですね。ゴールに向かって遮二無二突っ走る感じを自分と照らし合わせたりして。本当にたくさんパワーをもらいました。

それじゃあ、ラグビーを観だした頃には、神戸製鋼はチャンピオンだったんだね。

妹尾 そうですね。当時、林さん、大八木さん、平尾さんとラグビー界の少年隊でしたから(笑)。
とにかくラグビーはストイックな感じがしましたね。林さんなんかしょっちゅう自分を殴ってましたからね(笑)。

アマチュアは勝つしかないからね。

妹尾 普通に会社で働いて、ハードな練習していることを考えると、どんな体力しているのだろうと思ってました。林さんの本を読んで、やっぱり普通ではないなと思いましたよ(笑)。いい意味でですよ。寮にいらっしゃった頃、熱帯夜で寝付けなくてアスファルトの上で寝たエピソードなんて最高です(笑)。

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当時は寮の部屋にクーラーなんてなくてね。十時を越えたら食堂は閉まるし、風呂は二日に一回だし大変でしたね。

妹尾 でも楽しかったのではないですか。満ち足りない快感って後々まで残りますよね。

寮では禁止されていたんだけど、よく鍋をしましたね。よく皆で肉の取り合いをした(笑)。まあ楽しい時代だったね。いまならクーラーなしで生活することも考えられないけどね。暑い夜は、ベランダで寝てみたり、廊下で寝てみたり。それでも眠れないときは、外のアスファルトだったかな(笑)。その本を出版したのは、現役を引退して一年後くらいかな。膝の手術をしたのが34才の時で、1年間リハビリに費やして、来シーズンこそ公式戦に復帰するぞと思っていた時に、震災があった。グラウンドに山積みされた瓦礫の横を走ってトレーニングしましたね。自宅の隣の神戸高校のグラウンドも走らせてもらった。そのシーズンを最後に引退して、一年後に本を出版しました。妹尾くんとの出逢いは、本を読んでくれて、手紙とCDをもらったことだからね。そのときの手紙は僕にとって宝物だよ。手紙の返事に葉書を返し、そのあと電話で喋って、初めて待ち合わせして逢うことになったんだよね。「どんな奴が来るのかな」と思いながら待っていると、ボルサリーノみたいなものをかぶったおっちゃんがやってきて、これは違うなと思ってたらそれが妹尾くんだった(笑)。それで初めて呑んで仲良くなって、音楽の話なんかもしたよね。

妹尾 『永遠に』があれほど皆さんに愛される曲になって、本当に嬉しいです。歌詞の力もあって、結婚式などで使って下さる方も多いみたいですよ。林さんもカラオケで良く歌ってくれているみたいだし(笑)。

何回目かにラグビー仲間達と飲んだ時、同志社大学時代に皆でよく歌ってた「A HAPPY DAY」という歌を唄ったら、「いい歌ですね、CDつくろうよ」という話で盛り上がり、酔っぱらった席の話で終わらせたくなかったので、1年がかりでやっと完成したよね。

妹尾 初めてのレコーディングはどうでした。

楽しかったですよ。妹尾くんに編曲をやってもらって、忙しいなかスタジオで歌を録音して。1年がかりでしたね。完成パーティの2次会で、最後の最後に、妹尾くんが『永遠に』を、もとの歌詞のラグビーバージョンで唄ってくれたたけど、あれは感動したね。録音しておきたかったなあ。妹尾くんと出逢って改めて感じたことだけど、自分のなかにも寡黙さがあり、なかなか言葉として喋れないもどかしさを抱えていた時代もあったんだよ。いまになって思ってみれば、人と接することもなくいろんなものを自分のなかにしまっていた時間も大事な時間だったと思うんだよ。自分のラグビーにとっても大事なことであり、蓄積されたものがエネルギーになっていたような気がするね。

妹尾 そんな林さんがいたからこそ『永遠に』が生まれていろんな人に愛される曲になったんだと思います。

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今後は、どういうことしたいと考えているの?

妹尾

ゆくゆくは映画のサウンドトラックなどを手がけたいですね。僕はあまり海外旅行に興味がなくて、日本の町並みや情緒がすごく好きなんですよ。勿 論、神戸も好きですし、帰るべき港ですから。
そして自分が興味を持った人とどんどんセッションしていきたいですね。

僕は妹尾くんの音楽からは、優しい気持ちを感じるね。



「妹尾 武さんからの手紙」(手紙全文)

拝啓 林様 初めまして、突然のお手紙失礼します。
僕は現役時代から、神戸製鋼を応援させてもらっていて、ラグビー観戦が好きなのは勿論なのですが、それと同時に僕のなかで、林さんという人間そのものに興味を持ちはじめました。
それは勿論、強い選手だからとか、たくさんのキャップ数とかも含めてですが、時が経つうちに、それよりむしろ林さんの生き様というか、林さんが目を向けているものの先というか、そういうものをいくつもの試合のなかで感じ取りたいという気持ちが、どんどん膨らんでいきました。
林さんがくれた数え切れない感動や勇気は、林さんが書かれた『楕円球の詩』を読むことによってさらに高まり、いくつものシーンが僕のなかで繰り返され、言葉では伝えきれないほど心を動かされました。
ここらへんで自己紹介させてください。
僕は神戸生まれで、仕事は作曲、編曲、演奏をやっております。
実家はいまも神戸ですが、僕は東京に在住しております。
今回、なぜこのようにCDを贈らせていただいたかと言うと、このなかのゴズペラーズ(ご存じですか?) 五人のコーラスグループが唄っている『永遠に』というシングルがありますが、僕はこの曲の作曲をしました。
林さんが現役を引退されることを知ったときに、とにかくいろんな気持ちが押し寄せて、まるで自分のことのように涙が溢れました。
己の極限まで肉体を追いつめながら、走り続けた林さんに、「ありがとう」と「お疲れさま」の気持ちでいっぱいでした。
そして次のシーズン、林さんのいない秩父宮で試合を観ていたら、いないはずの林さんの姿が、風になってフィールドを駆け抜けていくような気がしました。
そのときふと「あなたの風になってすべてを包んであげたい」という言葉とメロディが、僕のなかに浮かびました。
そのときこの曲は、すごくいいものになるかも知れないという気持ちがありました。
しかしまだその時点では、頭の中にしかなかったので、何ヶ月か温めながら、ようやく他の部分を完成させました。
そしてその当時、まだそんなに売れていなかったゴズペラーズにこの曲を歌ってもらおうと思い、彼達とはそれ以前から曲づくりの合宿とかでサポートしていたので、仮唄をレコーディングしました。
サビを五人のコーラスでやると、圧倒的な力強さがあり、思っていた以上のものができあがり、次のシングルはこれでいこうということになったのです。
彼らもそのときデビューして数年、そろそろ売れなければソニーからリストラかもと、レコード会社の人に半分本気で言われていたので、僕の曲が選ばれたということで嬉しい反面、結構プレッシャーでした。
もしかすると彼らの運命を左右することになりかねませんから。でもそのなかにも、僕には「この曲ならきっと」という気持ちもありました。
そうこうするうちに、本番の歌入れも終わり、一枚のシングルが完成しました。そして発売。裸一貫、タイアップなしの状態でスタートしたのです。
それからラジオや有線でじわじわと広がり、結果44週間に渡ってオリコンのチャートを駆け抜けました。
彼らにも僕にとっても、初めての「ヒット曲」が生まれたのです。ここで僕が言いたいのは、もし林さんというひとりの人間が存在していなければ、この曲も生まれなかったし、彼らのブレイクもなかったかも知れません。
とにかくお礼が言いたかったのです。林さんはいろんな人にたくさんの感動や勇気を与えてくれました。
僕もそれを受け取ったなかのひとりだと、僕のなかの背番号4は、いつまでも林さんただひとりです。
本当にどうもありがとうございました。
感謝を込めて。
”あなたの風になってすべてを包んであげたい♪”

妹尾 武